戦後10年が過ぎ、昭和30年代に入った頃、都市部への人口集中が活発となり同時に核家族化も進んだことから、深刻な住宅不足でした。大阪府でもその問題に対処すべく毎年5〜6千戸の公営住宅が建てられましたが、入居競争率は数十倍以上に達することが多く、いくら建設しても焼け石に水の状態でした。そこで浮上したのが、これまでの発想とは次元の違うニュータウンの建設計画。それは大きな団地の集合体というものではなく、学校や商業施設、病院などのさまざまな機能を持ち、道路や鉄道も整備され、10万人規模が暮らせる大きなまちを新たに作ろうというものでした。折から激しい住宅の競争の中で、土地や住宅資材の価格は高騰。しかし、最も住む場所に困っている一般的な所得層にも無理のない家賃で住める住宅を多く供給しなければなりません。大阪府による安く買収できる広大な土地探しが始まりました。生駒山麓や枚方、泉南などの候補があがる中、その土地の険しさからほとんど人の住み着く気配のなかった千里丘陵(大阪府北部に位置する広大な丘陵)もまたその名を連ね、激しい論議の末、この地が選ばれたのです。
理由は、大阪の中心部からわずか10kmほどの距離に位置すること、国鉄(現JR)や阪急の沿線が近くにあることに加え、名神や中国自動車道などの高速道路が整備される計画があったことなどでした。大阪府発行の千里ニュータウンの情報紙、新聞「千里」(現在は廃刊)の元編集者で千里に関してさまざまな角度で取材や執筆にあたり、中でも千里の歴史に関心をもってきた北田順三さんは当時のことを振り返って言います。
元 新聞「千里」編集者 北田順三さん
現在の千里ニュータウン(古江台方面)
現在の千里インターチェンジ付近
現在の津雲台付近の緑道
「千里ニュータウン開発の話が出た昭和32年頃には、私はまだ直接関わってはいなかったのですが、『そんなこと本当にできるのか?』というのが一般的な見方で、『これは面白い』と関心が高まったのは、昭和35年に発表されたマスタープラン以降だとされています。それまでの日本では考えられないような発想の計画がたくさん盛り込まれていましたから。例えば、『12住区の並木道(幹線道路)には全て個性を持たせて植栽する』ですとか、幻に終わった学校教育制度の改革など、画期的なアイデアがいろいろありました。さらに、幅広い所得層の人達がバランスよく住めるまち、いろいろな境遇の人たちが仲良く暮らせるまちにしたことも素晴らしい計画だったと思います。 2002年に千里に来られたフランスの視察団は言っていました。『フランスでは、低所得者を中心にニュータウンに入居させた結果、街の風紀が乱れ、人が離れていってしまって困っている』と」。
千里ニュータウンの基本計画(マスタープラン)は京都大学などの協力を得て昭和35年に策定されました。その内容をおおまかに言うなら「もとからある自然を生かし、緑豊かな街にするこ」と「教育を充実させ、人が住み続けられるまちにすること」「公共サービス施設を充実させること」「遊園地や老人ホーム、劇場など魅力的な施設を設けること」などでした。
昭和40年頃の千里南公園「牛ヶ首池」。当時はボートに乗ることができました。
昭和40年頃の新千里北町近隣センター。(ショッピングセンター)各住区に1箇所づつ配置されました。
昭和40年頃の高野台中学校。広々とした歩道の奥に団地群が見えます。
写真出所「千里ニュータウンの建設」発行:大阪府
「最初はもうそれは大変だったようです。千里ニュータウンに初めて住人が入居したのは昭和37年9月15日、佐竹台(阪急南千里駅周辺)でした。まだ鉄道が千里山までしかきていませんでしたから、通勤するのにも泥んこ道を約20分以上歩いて行かなければなりませんし、周辺は造成中で、ダンプは通るわ砂埃は舞うわで当初、応募に当選した人の中には辞退する人もあり、再募集をかけることもありました」。
造成・開発の進む千里ニュータウン(航空写真)
昭和37年、最初に開発・入居が始まった佐竹台の様子
入居が始まる横で造成は進められました。
写真出所「千里ニュータウンの建設」発行:大阪府/新聞「千里」発行:(財)大阪府千里センター/「住宅年報」発行:大阪府