しかし、千里丘陵はその地質から水が豊富に必要となる田畑には向かなかったようで、入植した人々は、桃づくりを副業としていましたが、それもしばらくして病害虫が大量発生しほぼ絶滅。そこで孟宗竹を植え、筍で生計をたてたのだそうです。
それほどまでに文化を立ち上げにくかった地に、大阪府下でも人気の高い千里ニュータウンという新たな文化が生まれたのはなぜだったのでしょう。その理由は、住宅やインフラを整えただけではなかったからです。
「千里ニュータウンづくりの根幹は、入居条件の異なる各種の集合住宅をつくっただけでなく、戸建て住宅も各所に配置し、いろんな境遇の方をバランス良く集めたことです。その住民が仲良く住み暮らせるようにと始まった一つに「千里市民フォーラム」の発足が挙げられます。ライフスタイルの微妙に違う住民が一堂に会し、行政も参加して、まちづくりについて討論してもらったり、自分たちのまちづくり に対する意識を高めてもらえるよう仕掛けました。一方行政も、海外のニュータウン関連の研究者やゲストを招いて『国際フォーラム』や『ニュータウンフォーラム』をたびたび開催。民・学・産・官一体となってのまちづくりが進められました。周年記念事業など行政主導の各種イベントも活発に開かれましたが、千里のまちづくりの大きな礎石となったのが、全住民の人たちが自ら創り上げた『盆踊り』。これは大きな役割を果たしましたね。千里ニュータウンには歴史的な文化がなく、伝統的なお祭りもなかったのです。千里には地方から来られた方も多く、各住区は競うように夏の夜を楽しみ、親交を深めたようです」。
盆踊りは主に、校庭や 近隣センター前の広場などで 実施されました。
市民フォーラムは現在でも開催されています。
最後に北田さんに千里ニュータウンの魅力について伺いました。
「やはり、緑豊かで自然が残っていることでしょうね。公園と池、それと並木道です。12住区それぞれに個性を持たせた並木道。そういうことに心を寄せながら暮らすと良いと思います。それと小道。私は小道を捜し回って、連載記事にしました。千里ニュータウンはアスファルトジャングルのように思われがちですがそんなことはない。素敵な土の小道がたくさんあります。そこには思わぬ光景を発見できました。最初に意図された自然の豊かさと変化は今も残されています。千里ニュータウンは、そんな魅力を探しながら暮らす『冒険のまち』であって欲しいと思います」。
北田さんにとって千里ニュータウンとは
探れば探るほど発見のある、冒険のまち。そして、昭和という変化と発展の時代に、それまでにはなかった新しい形で文化を創造していった画期的なまちであったということではないでしょうか。
高野台小学校付近のケヤキ並木
紅葉が美しい佐竹台のフウノキ並木
千里南公園にある歌碑が並ぶ小道
写真協力:北田順三氏
動画写真出所:「千里ニュータウンの建設」発行:大阪府/新聞「千里」発行:(財)大阪府千里センター
動画写真協力:北田順三氏